姥様
2006-08-09
社務所の土間に入った途端、足が止まった。
板張りの廊下の奥に、背の丸まった小さな老婦人が、立ってこちらを見ていた。
「何かあったか」
酷い嗄(しゃが)れ声が送られてくる。
「はい。梅が花開いております。姥様」
緊張気味に応えると、無言でこちらに歩を進める小さな老婦人の気配を感じ、益々緊張する。皆に姥様と呼ばれるこの老婦人の名は、神泊喜久枝(かむどまり きくえ)と言う。今年で七十五歳になる、私の養母であり、神主の母親でもある。
微かな足音を聞きながら内心、私は舌を巻いていた。
何というタイミングの良さだろう。普段、彼女は自室に籠ってばかりいるのに、戸口から見える所に居て、予め私が到着するのが分っていたかのようだ。否。そうではないだろう。姥様にあっては、しばしばこうした偶然が起こるのだ。密かに、私と同じ様に何等かの不思議な力をもっているのでは、と疑っているのだが、気軽に質問出来る雰囲気の人ではなかった。それに、確たる応えが期待出来るような類いの内容でないのは私自身が一番承知しているし、周りの者は誰一人としてそう疑っていない。とかく不思議な力と言うのは、自己申告で知れるのが殆どではあるまいか。本人が隠し、否定してしまえば、本人以外には認知の仕様がない。更には、私一人の勘違いである可能性もある。
姥様は土間の前の板の間で立ち止ると、差し出した梅の枝を受け取らず、ふんふん、と見定める仕草をした。
「何処にあった」
「家(や)の外に」
「未だ小さく、一つだけだが、開いておるの」
「はい」
「罰当りは誰ぞ?」
姥様は億劫気にそう言いながら廊下の奥に顔を廻らせた。
くすくすくす
少女が居た。座敷から頭だけを出し、忍び笑いをしている。赤い着物の袂を翻してすぐに引っ込んだ。
「ふん」
「姥様、これは」
「先触れの梅。今年も春が早そうだの」
漸く姥様は私の手から梅を受け取った。
「光希」
「はい」
「禊斎を始める」
今、この瞬間から、禊斎(けっさい)が始まった。神泊神社が春と秋に行う神事に向けて。
私は深く頭を下げて承諾の旨を表した。
くすくすくす
姿は見えないのに、忍び笑いが微かに聞え、消えた。
喜右ヱ門の手によって境内にある半鐘が鳴らされ、神事に向けての禊斎が始まった事が村中に知らされた。
禊斎とは、精進禊斎とは良く言うが、神泊神社ではいつもと違う事は特にしなかった。神社での沐浴くらいか。禊斎とは食事制限や水垢離などの行為のみを指すのではなく、そもそも真摯な気持ちでもって神様なり仏様なりに向かう心支度をする為にある。皆、人は雑事に追われ、何をしてなくとも日々穢れを積み重ねてゆく。その為に日常生活とは時間を区切る必要があり、禊斎という形がある。つまりは気持ちを引き上げてゆく行為を禊斎と呼び、神泊神社では祭りに向けて意識を高めてゆく期間そのものを禊斎と呼んだ。そして、神事が終わる迄行われる事になっている。
鳴り響く半鐘の音は私に適宜な緊張をもたらした。社務所を出て杉林の参道に入る。
……少し早いが。
今日からの奉仕希望者は10時に到着予定となっていた。
『神泊村 1』へはこちら
不思議な人達ばかり、と思われたら→
←ぽちっと。
板張りの廊下の奥に、背の丸まった小さな老婦人が、立ってこちらを見ていた。
「何かあったか」
酷い嗄(しゃが)れ声が送られてくる。
「はい。梅が花開いております。姥様」
緊張気味に応えると、無言でこちらに歩を進める小さな老婦人の気配を感じ、益々緊張する。皆に姥様と呼ばれるこの老婦人の名は、神泊喜久枝(かむどまり きくえ)と言う。今年で七十五歳になる、私の養母であり、神主の母親でもある。
微かな足音を聞きながら内心、私は舌を巻いていた。
何というタイミングの良さだろう。普段、彼女は自室に籠ってばかりいるのに、戸口から見える所に居て、予め私が到着するのが分っていたかのようだ。否。そうではないだろう。姥様にあっては、しばしばこうした偶然が起こるのだ。密かに、私と同じ様に何等かの不思議な力をもっているのでは、と疑っているのだが、気軽に質問出来る雰囲気の人ではなかった。それに、確たる応えが期待出来るような類いの内容でないのは私自身が一番承知しているし、周りの者は誰一人としてそう疑っていない。とかく不思議な力と言うのは、自己申告で知れるのが殆どではあるまいか。本人が隠し、否定してしまえば、本人以外には認知の仕様がない。更には、私一人の勘違いである可能性もある。
姥様は土間の前の板の間で立ち止ると、差し出した梅の枝を受け取らず、ふんふん、と見定める仕草をした。
「何処にあった」
「家(や)の外に」
「未だ小さく、一つだけだが、開いておるの」
「はい」
「罰当りは誰ぞ?」
姥様は億劫気にそう言いながら廊下の奥に顔を廻らせた。
くすくすくす
少女が居た。座敷から頭だけを出し、忍び笑いをしている。赤い着物の袂を翻してすぐに引っ込んだ。
「ふん」
「姥様、これは」
「先触れの梅。今年も春が早そうだの」
漸く姥様は私の手から梅を受け取った。
「光希」
「はい」
「禊斎を始める」
今、この瞬間から、禊斎(けっさい)が始まった。神泊神社が春と秋に行う神事に向けて。
私は深く頭を下げて承諾の旨を表した。
くすくすくす
姿は見えないのに、忍び笑いが微かに聞え、消えた。
喜右ヱ門の手によって境内にある半鐘が鳴らされ、神事に向けての禊斎が始まった事が村中に知らされた。
禊斎とは、精進禊斎とは良く言うが、神泊神社ではいつもと違う事は特にしなかった。神社での沐浴くらいか。禊斎とは食事制限や水垢離などの行為のみを指すのではなく、そもそも真摯な気持ちでもって神様なり仏様なりに向かう心支度をする為にある。皆、人は雑事に追われ、何をしてなくとも日々穢れを積み重ねてゆく。その為に日常生活とは時間を区切る必要があり、禊斎という形がある。つまりは気持ちを引き上げてゆく行為を禊斎と呼び、神泊神社では祭りに向けて意識を高めてゆく期間そのものを禊斎と呼んだ。そして、神事が終わる迄行われる事になっている。
鳴り響く半鐘の音は私に適宜な緊張をもたらした。社務所を出て杉林の参道に入る。
……少し早いが。
今日からの奉仕希望者は10時に到着予定となっていた。
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