蛇神−喜右ヱ門編 18
2007-04-23
火鉢にかけた鉄瓶が、ふつふつ、と湯玉の上がる音を立てている。
誰も何も、喜右ヱ門が語り終えても、言わなかった。
三人がやって来てから沈黙が初めて、我家に降りた。
無言の内に、私は背に片腕を回し、古傷の辺りを触った。
否。まさか。……そんな……。
手が、熱い何かに、触れた。
何っ?
驚いて振り返ると、それは一郎の手だった。
ほっ、とする間もなく、背筋を撫で下ろされ、びくっ、と背が反れた。
「居ねぇな」
「なっ?居てたまるかっ」
「背中弱いな」
「弱いも強いもあるかっ。お前を除いて皆、ここに居る者は、真剣なのだぞっ」
「は?笑っているぞ。冬季は」
「え」
一郎の言葉に、まさか、と顔を向けると、肩を僅かに震わせながら口元を手で押さえている冬季の姿があった。
声を殺して笑っているようだ。
初めて態度に出して笑っているところを見た。
私がまじまじと見ているのに気付いたのか冬季は、ゆっくりと手を外しながら言った。
「光希が、一郎に居て欲しい、と言った理由が、今、分った……」
声に笑いが残っている。光も軽く、柔らかい。
何が分ったというのだろう。
得心されても同調出来ず、憮然として正面に顔を戻した。
お気楽な私達の会話など聞こえていないかのように、喜右ヱ門は身動ぎ一つしないでいた。
光は、我家に来た時からと変わっていない。暗く、塊のような黒い光をしている。
「我は光希様を……独り占めしたかった気持ちがあったのかも知れませんの……。
姥様の思惑通りに嵌ってしまったと、後になって分かりながら……。
我自身の欲望に、負けたんだの……」
少なからず私は衝撃を受けていた。
過去二つの神事の出来事が姥様の思惑通りであった事。
喜右ヱ門が私をそういう対象として見る事があったという事。だが、昼間の行動が全てその感情からとは思えなかった。
「昼間の行動はそれって訳か」
一郎が言った。
その一言で、喜右ヱ門の黒い光のところどころから眩しい光が発され始めた。
まるで溶岩の割れ目から内側の冷える事のない熱が覗いているように。
「聞きたい事は、細かいことも含めて、たくさんある。それについては、お前も察しは、ついている」
「……」
「だが、一切話す気はない。その顔は、そういう顔だな」
一郎は軽く肩をすくめて言った。
どのような顔なのか。
この時ばかりは、私は、喜右ヱ門の表情を見たいと思った。
喜右ヱ門の黒い光は、何事をも話さないという意思の表れのように見えていた。それが今は所々眩しい光が覗き、あと一押しの質問で、一気に割れ溢れ出しそうに見える。
私からしかし、何かを訊くのは、喜右ヱ門の光が私に向けられているように感じ、酷く怖く思えた。
「お前は何を守っている?」
「光希様を」
一郎は喜右ヱ門の強い声の応えを無視し、私に顔を向けた。
「本人に訊いてみよう。喜右ヱ門が知らない間の出来事を。神泊処の中で何が起こったのか」
私は目を一度強く瞑った。
話す勢いが正直削がれ、話したくない気持ちがあった。逆に勢いづいた一郎を止める術も思いつかず、喜右ヱ門も明かした今を逃しては、話す明かす必要も無い話になってしまうだろう。
話したところで、理解されるとも思わない。
姥様の思惑があろうと、私は私の想いがあって神事に挑んでいた。
後にどうなっても構わないという諦めもあって、同じ晩の事を語り始めた。
つづく
誰も何も、喜右ヱ門が語り終えても、言わなかった。
三人がやって来てから沈黙が初めて、我家に降りた。
無言の内に、私は背に片腕を回し、古傷の辺りを触った。
否。まさか。……そんな……。
手が、熱い何かに、触れた。
何っ?
驚いて振り返ると、それは一郎の手だった。
ほっ、とする間もなく、背筋を撫で下ろされ、びくっ、と背が反れた。
「居ねぇな」
「なっ?居てたまるかっ」
「背中弱いな」
「弱いも強いもあるかっ。お前を除いて皆、ここに居る者は、真剣なのだぞっ」
「は?笑っているぞ。冬季は」
「え」
一郎の言葉に、まさか、と顔を向けると、肩を僅かに震わせながら口元を手で押さえている冬季の姿があった。
声を殺して笑っているようだ。
初めて態度に出して笑っているところを見た。
私がまじまじと見ているのに気付いたのか冬季は、ゆっくりと手を外しながら言った。
「光希が、一郎に居て欲しい、と言った理由が、今、分った……」
声に笑いが残っている。光も軽く、柔らかい。
何が分ったというのだろう。
得心されても同調出来ず、憮然として正面に顔を戻した。
お気楽な私達の会話など聞こえていないかのように、喜右ヱ門は身動ぎ一つしないでいた。
光は、我家に来た時からと変わっていない。暗く、塊のような黒い光をしている。
「我は光希様を……独り占めしたかった気持ちがあったのかも知れませんの……。
姥様の思惑通りに嵌ってしまったと、後になって分かりながら……。
我自身の欲望に、負けたんだの……」
少なからず私は衝撃を受けていた。
過去二つの神事の出来事が姥様の思惑通りであった事。
喜右ヱ門が私をそういう対象として見る事があったという事。だが、昼間の行動が全てその感情からとは思えなかった。
「昼間の行動はそれって訳か」
一郎が言った。
その一言で、喜右ヱ門の黒い光のところどころから眩しい光が発され始めた。
まるで溶岩の割れ目から内側の冷える事のない熱が覗いているように。
「聞きたい事は、細かいことも含めて、たくさんある。それについては、お前も察しは、ついている」
「……」
「だが、一切話す気はない。その顔は、そういう顔だな」
一郎は軽く肩をすくめて言った。
どのような顔なのか。
この時ばかりは、私は、喜右ヱ門の表情を見たいと思った。
喜右ヱ門の黒い光は、何事をも話さないという意思の表れのように見えていた。それが今は所々眩しい光が覗き、あと一押しの質問で、一気に割れ溢れ出しそうに見える。
私からしかし、何かを訊くのは、喜右ヱ門の光が私に向けられているように感じ、酷く怖く思えた。
「お前は何を守っている?」
「光希様を」
一郎は喜右ヱ門の強い声の応えを無視し、私に顔を向けた。
「本人に訊いてみよう。喜右ヱ門が知らない間の出来事を。神泊処の中で何が起こったのか」
私は目を一度強く瞑った。
話す勢いが正直削がれ、話したくない気持ちがあった。逆に勢いづいた一郎を止める術も思いつかず、喜右ヱ門も明かした今を逃しては、話す明かす必要も無い話になってしまうだろう。
話したところで、理解されるとも思わない。
姥様の思惑があろうと、私は私の想いがあって神事に挑んでいた。
後にどうなっても構わないという諦めもあって、同じ晩の事を語り始めた。
つづく
蛇神−喜右ヱ門編 17
2007-04-20
喜右ヱ門の理性が焼き切れ、光希を抱き締めた。
腕の中の熱が己の身と同調し、心地良く昂ぶってゆく。腕に感じるぬめりも、忘れられないあの神事の夜、光希がされた事を想起させ、他の何者でもない己の感情が生まれた。
「うわぁああっ」
喜右ヱ門が悲鳴を上げた。
手が、妙な物に触れた。
驚きのまま雪の上を、手足をばたつかせるようにして、後退りした。
「く……うぅっ……」
光希は、喜右ヱ門によって突き放され、雪の上で身を捩(よじ)らせた。
何だのっ?
血に染まったの半着の丁度その辺り。
うねうね、と蠢く物を感じた。
蛇っ?否。……そんな馬鹿なっ。
ほんの少し前、傷の具合を確かめた時には、無論、そんなものは居なかった。
どこかに紛れ、隠れている気配もなかった。
それ以前に、この寒い時期に蛇が出る筈も、ない。
冬の早い訪れがなければ、未だ道端でぐずぐずと穴まどいしている姿も見られようが、今期それは有り得ない事だった。
しかしどう見ても、一匹の蛇が蠢いているようにしか見えなかった。
呆然とした喜右ヱ門の前で、光希が首を反らし、声を上げた。
半着の赤い部分が一際大きく盛り上がった。
「ぅあぁっ」
呻く様な悲鳴に呼応するように、不気味に蠢きながら、徐々に収まってゆく。その様は、一匹の蛇が傷口から体の奥深くへと潜ってゆくように、喜右ヱ門には、見えた。この世の事とは思われない、とてつもなく不気味な光景だった。
「−−良く、務めたようじゃな」
びくっ、と、声の方向に顔を向けた。
拝殿の端に、一人、老婆が立っていた。
にぃ、と姥様は笑った。
つづく
腕の中の熱が己の身と同調し、心地良く昂ぶってゆく。腕に感じるぬめりも、忘れられないあの神事の夜、光希がされた事を想起させ、他の何者でもない己の感情が生まれた。
「うわぁああっ」
喜右ヱ門が悲鳴を上げた。
手が、妙な物に触れた。
驚きのまま雪の上を、手足をばたつかせるようにして、後退りした。
「く……うぅっ……」
光希は、喜右ヱ門によって突き放され、雪の上で身を捩(よじ)らせた。
何だのっ?
血に染まったの半着の丁度その辺り。
うねうね、と蠢く物を感じた。
蛇っ?否。……そんな馬鹿なっ。
ほんの少し前、傷の具合を確かめた時には、無論、そんなものは居なかった。
どこかに紛れ、隠れている気配もなかった。
それ以前に、この寒い時期に蛇が出る筈も、ない。
冬の早い訪れがなければ、未だ道端でぐずぐずと穴まどいしている姿も見られようが、今期それは有り得ない事だった。
しかしどう見ても、一匹の蛇が蠢いているようにしか見えなかった。
呆然とした喜右ヱ門の前で、光希が首を反らし、声を上げた。
半着の赤い部分が一際大きく盛り上がった。
「ぅあぁっ」
呻く様な悲鳴に呼応するように、不気味に蠢きながら、徐々に収まってゆく。その様は、一匹の蛇が傷口から体の奥深くへと潜ってゆくように、喜右ヱ門には、見えた。この世の事とは思われない、とてつもなく不気味な光景だった。
「−−良く、務めたようじゃな」
びくっ、と、声の方向に顔を向けた。
拝殿の端に、一人、老婆が立っていた。
にぃ、と姥様は笑った。
つづく
蛇神−喜右ヱ門編 16
2007-04-19
喜右ヱ門は、光希の脱げた半着を肩に戻し、その胸元を握り締め、目を強く瞑った。
苦しい……。
目を瞑った筈なのに、光希のいつにないうっすらと上気した目元や恍惚さを残した表情が瞼の裏にはっきりと焼きついてしまい、消えない。遣戸を前にしての鼓動が戻っただけでなく、激しさを増して胸を圧迫してくる。
半着を握る手が震え続けた。
聖域として勝手に抱いていた格付けを、今の光希は覆す様相を見せているのに、失望もない。唯々、喜右ヱ門は、抱いてはならない激情を光希に向けている己自身に焦りや否定を向けていた。
手当てをせねば……。
光希の片腕を取って首に担いだ。
熱い……。
触れる光希の体は、普段よりもずっと熱くなっていた。半着越しに、薄い肉付きながらも肌の柔らかさが、触れている半身全体に伝わる。
光希は、己の体に手を回す者が喜右ヱ門であると分っているのかいないのか、弱弱しい手付きで突っ張った。
「くっ。……光希様っ」
抱き寄せる事も出来ず、腕に力を込めて名を強く呼ばわると、光希は、あちこちとさ迷わせていた目の焦点を合わせ、初めて喜右ヱ門の存在を認めたかのように、抵抗を止めた。
「だ……」
大丈夫ですかの?と、声を掛け直そうとした時、重みが胸元にかかった。
光希が予想外に胸元にしがみ付いてきて、咄嗟に踏ん張る事も出来ず、喜右ヱ門は雪の上に倒れ込んだ。
「み……つきっ……様っ?」
「……喜……右ヱ門っ。熱いっ……。焼ける……」
喜右ヱ門の腕が背に回したままで、傷に触れている筈なのに、それでも光希は掴んだ喜右ヱ門の服を放さず、尚も強くしがみ付いた。
「喜右ヱ門……っ、喜右ヱ門っ」
泣くように、喘ぐその唇は真っ赤に塗られており、熱い息が喜右ヱ門の首筋に纏いつき、肌を焦がしてゆく。
「……光希様……」
つづく
苦しい……。
目を瞑った筈なのに、光希のいつにないうっすらと上気した目元や恍惚さを残した表情が瞼の裏にはっきりと焼きついてしまい、消えない。遣戸を前にしての鼓動が戻っただけでなく、激しさを増して胸を圧迫してくる。
半着を握る手が震え続けた。
聖域として勝手に抱いていた格付けを、今の光希は覆す様相を見せているのに、失望もない。唯々、喜右ヱ門は、抱いてはならない激情を光希に向けている己自身に焦りや否定を向けていた。
手当てをせねば……。
光希の片腕を取って首に担いだ。
熱い……。
触れる光希の体は、普段よりもずっと熱くなっていた。半着越しに、薄い肉付きながらも肌の柔らかさが、触れている半身全体に伝わる。
光希は、己の体に手を回す者が喜右ヱ門であると分っているのかいないのか、弱弱しい手付きで突っ張った。
「くっ。……光希様っ」
抱き寄せる事も出来ず、腕に力を込めて名を強く呼ばわると、光希は、あちこちとさ迷わせていた目の焦点を合わせ、初めて喜右ヱ門の存在を認めたかのように、抵抗を止めた。
「だ……」
大丈夫ですかの?と、声を掛け直そうとした時、重みが胸元にかかった。
光希が予想外に胸元にしがみ付いてきて、咄嗟に踏ん張る事も出来ず、喜右ヱ門は雪の上に倒れ込んだ。
「み……つきっ……様っ?」
「……喜……右ヱ門っ。熱いっ……。焼ける……」
喜右ヱ門の腕が背に回したままで、傷に触れている筈なのに、それでも光希は掴んだ喜右ヱ門の服を放さず、尚も強くしがみ付いた。
「喜右ヱ門……っ、喜右ヱ門っ」
泣くように、喘ぐその唇は真っ赤に塗られており、熱い息が喜右ヱ門の首筋に纏いつき、肌を焦がしてゆく。
「……光希様……」
つづく
蛇神−喜右ヱ門編 15
2007-04-18
軒下は雪が退けられ、歩ける程度になっている。
退けられた雪は、建物を囲うように、少し離れた所に小高く積まれている。
ずる、ずる、と、這い進んでいる光希。
う……わ。
駆け寄ろうとした喜右ヱ門の足が止まった。
無言で見守っている内にも、光希は雪の小山に沈み行くように身を進ませてゆく。
顎を上げた顔や、片脱ぎになった肩や胸は、薄紅色に染まっており、柔らかい粉雪がまんべんなく張り付いている。体熱より、見る間に水に変わり、肌の上を滑り落ちてゆく。吐く白い息すらも匂うかのように、光希が妙に婀娜めいて見えた。
……赤……?
光希の半着の背に、血痕が滲んでいるのに気付いた。
なして背中……?一体、中で何が……。否、今は手当を。
喜右ヱ門は光希に近寄り、半着を捲って中を覗いた。
「……うっ」
思わず呻いた。
酷く深いと思われる裂傷が幾筋も並び、鮮血が止め処なく溢れ出ている。血は忌むもの。恐ろしい気持ちを抑え、半着の上から傷を押さえると生暖かさが広がり、傷の深さが思い知れた。
「動かないでっ」
抗う光希を止めた声は殆ど悲鳴であった。
「あ……ついっ……」
喜右ヱ門を押しやろうとする光希が、腕の中で声を漏らした。
熱い?
眉を顰めて光希は、右肩に残っていた半着を、自ら脱ぎ落とした。
あ……。
喜右ヱ門の全身が硬直した。薄紅色の裸身が目の前に広がり、息を飲んだ。冷気の中に暖かい血の匂いが立ち上り、鼻腔に入り込む。その姿態、その匂いに、酔い、恍惚とした。
「だっ……、駄目ですのっ」
喜右ヱ門は拒絶を、今度は声にした。
飛び込もうとした時も、かつて母親や光希に抱いた暗い嫌悪からではなかった。再び抱いても仕方ないのに、この時は、微塵も抱かなかった。
なして……っ。なしてだのっ?
止め処なく体が熱くなってゆく。
つづく
退けられた雪は、建物を囲うように、少し離れた所に小高く積まれている。
ずる、ずる、と、這い進んでいる光希。
う……わ。
駆け寄ろうとした喜右ヱ門の足が止まった。
無言で見守っている内にも、光希は雪の小山に沈み行くように身を進ませてゆく。
顎を上げた顔や、片脱ぎになった肩や胸は、薄紅色に染まっており、柔らかい粉雪がまんべんなく張り付いている。体熱より、見る間に水に変わり、肌の上を滑り落ちてゆく。吐く白い息すらも匂うかのように、光希が妙に婀娜めいて見えた。
……赤……?
光希の半着の背に、血痕が滲んでいるのに気付いた。
なして背中……?一体、中で何が……。否、今は手当を。
喜右ヱ門は光希に近寄り、半着を捲って中を覗いた。
「……うっ」
思わず呻いた。
酷く深いと思われる裂傷が幾筋も並び、鮮血が止め処なく溢れ出ている。血は忌むもの。恐ろしい気持ちを抑え、半着の上から傷を押さえると生暖かさが広がり、傷の深さが思い知れた。
「動かないでっ」
抗う光希を止めた声は殆ど悲鳴であった。
「あ……ついっ……」
喜右ヱ門を押しやろうとする光希が、腕の中で声を漏らした。
熱い?
眉を顰めて光希は、右肩に残っていた半着を、自ら脱ぎ落とした。
あ……。
喜右ヱ門の全身が硬直した。薄紅色の裸身が目の前に広がり、息を飲んだ。冷気の中に暖かい血の匂いが立ち上り、鼻腔に入り込む。その姿態、その匂いに、酔い、恍惚とした。
「だっ……、駄目ですのっ」
喜右ヱ門は拒絶を、今度は声にした。
飛び込もうとした時も、かつて母親や光希に抱いた暗い嫌悪からではなかった。再び抱いても仕方ないのに、この時は、微塵も抱かなかった。
なして……っ。なしてだのっ?
止め処なく体が熱くなってゆく。
つづく
蛇神−喜右ヱ門編 14
2007-04-17
開け放たれた戸の前に、喜右ヱ門は走り出た。
寒々とした板張りの屋内が見えた。
その中程に光希が倒れていた。胸元を掴み上げられている。
掴み上げているのは、識峰。光希はしがみつくような格好をしていた。
白と赤。
雪明りが差し込んでいるとは言え、室内は暗い。
まずはっきりと薄暗い中に、大きく捲れた袴の裾から延び出た白く細い足と、赤く刷いたような跡が見えた。
それを見たのは一瞬で、識峰は光希を離して翻り、東の奥へと向った。
喜右ヱ門は、ぺたんとその場に座り込んだ。
識峰のもう片方の腕は、光希の袴の裾から下半身の中央へと届いているように見えた。
すっ、と白い物が、視界の端に現れた。
遣り込められた戸に縋るようにして出てきた。
「……光……希、様……」
光希は喜右ヱ門の声など聞こえないかのように、よろよろとして脇を通り過ぎ、欄干に覆い被さるようにして上体を倒した。
ぐらり、と傾ぐ。
欄干の高さは膝くらいだ。
どさり
……え?あっ。
落ちる音で漸く喜右ヱ門は、頭から光希が落下した事に気付き、慌てて欄干に取り付いた。
「光希様っ?」
素っ頓狂な声で呼ばわると同時、背後から、嬌声とも吐息ともとれる、耳馴染んだ声が聞こえてきた。
喜右ヱ門は後ろを断ち切るが如く、欄干の下へと身を躍らせた。
聖域とさえ位置付けていた喜右ヱ門。位置付けを光希自身に覆されても、すぐにはそうとは気付かず、更には“尚それでも“とまで達っするとは、思っていなかった。
未だ、この時は……。
つづく
寒々とした板張りの屋内が見えた。
その中程に光希が倒れていた。胸元を掴み上げられている。
掴み上げているのは、識峰。光希はしがみつくような格好をしていた。
白と赤。
雪明りが差し込んでいるとは言え、室内は暗い。
まずはっきりと薄暗い中に、大きく捲れた袴の裾から延び出た白く細い足と、赤く刷いたような跡が見えた。
それを見たのは一瞬で、識峰は光希を離して翻り、東の奥へと向った。
喜右ヱ門は、ぺたんとその場に座り込んだ。
識峰のもう片方の腕は、光希の袴の裾から下半身の中央へと届いているように見えた。
すっ、と白い物が、視界の端に現れた。
遣り込められた戸に縋るようにして出てきた。
「……光……希、様……」
光希は喜右ヱ門の声など聞こえないかのように、よろよろとして脇を通り過ぎ、欄干に覆い被さるようにして上体を倒した。
ぐらり、と傾ぐ。
欄干の高さは膝くらいだ。
どさり
……え?あっ。
落ちる音で漸く喜右ヱ門は、頭から光希が落下した事に気付き、慌てて欄干に取り付いた。
「光希様っ?」
素っ頓狂な声で呼ばわると同時、背後から、嬌声とも吐息ともとれる、耳馴染んだ声が聞こえてきた。
喜右ヱ門は後ろを断ち切るが如く、欄干の下へと身を躍らせた。
聖域とさえ位置付けていた喜右ヱ門。位置付けを光希自身に覆されても、すぐにはそうとは気付かず、更には“尚それでも“とまで達っするとは、思っていなかった。
未だ、この時は……。
つづく
蛇神−喜右ヱ門編 13
2007-04-16
離れた拝殿の縁の上に、老婆が小さく正座している。
こちらを見ようともせず、俯いたまま、ぴくりとも動こうとしない。
耳はまだまだ達者の筈だ。拝殿と神泊処との距離はそう遠くはない。
微かながらも光希の声は聞こえている筈である。
杉の古木のように落ち着き払っている様子が、更に喜右ヱ門を混乱させた。
姥様にとっては予想の範疇なのだろうかのっ?只事でない光希様の声がっ?
声が一段と高く響いた。
だ、駄目ですのっ。
切羽詰ったような、心を掻き立てる声だった。
突き動かされたかのように、喜右ヱ門は目の前の遣戸に手を、ぐっ、と掛けた。
パァンッ
思わぬ西の方から、遣戸を手荒に開く音と、甲高い笑い声が、寒夜の空間を通し、はっきりと聞こえてきた。
戸が開かれた!
思うが早いか、ぱっ、と身を起こし、縁の上を西に走った。
角に着いた時、欄干の上から雪上に飛び降りる、白い寝衣姿の少女の姿が見えた。
桃花様っ?
その足は早く、尚も笑い続けながら少女は雪の杉林の中へと走り込んでいった。
追って追いつく速さではない。
なしてここサ!?光希様はっ?
建物に目を転じると、四枚仕掛けの遣戸が左右に押しやられ、中を窺える状態であった。
つづく
こちらを見ようともせず、俯いたまま、ぴくりとも動こうとしない。
耳はまだまだ達者の筈だ。拝殿と神泊処との距離はそう遠くはない。
微かながらも光希の声は聞こえている筈である。
杉の古木のように落ち着き払っている様子が、更に喜右ヱ門を混乱させた。
姥様にとっては予想の範疇なのだろうかのっ?只事でない光希様の声がっ?
声が一段と高く響いた。
だ、駄目ですのっ。
切羽詰ったような、心を掻き立てる声だった。
突き動かされたかのように、喜右ヱ門は目の前の遣戸に手を、ぐっ、と掛けた。
パァンッ
思わぬ西の方から、遣戸を手荒に開く音と、甲高い笑い声が、寒夜の空間を通し、はっきりと聞こえてきた。
戸が開かれた!
思うが早いか、ぱっ、と身を起こし、縁の上を西に走った。
角に着いた時、欄干の上から雪上に飛び降りる、白い寝衣姿の少女の姿が見えた。
桃花様っ?
その足は早く、尚も笑い続けながら少女は雪の杉林の中へと走り込んでいった。
追って追いつく速さではない。
なしてここサ!?光希様はっ?
建物に目を転じると、四枚仕掛けの遣戸が左右に押しやられ、中を窺える状態であった。
つづく
蛇神−喜右ヱ門編 12
2007-04-13
陶器が割れる音が聞こえ、同時に、誰かが倒れるような音が聞こえた。
姥様の息子達が新鮮を奉げに上がった時と、同じような音だった。
失敗か?と思い、いつでも中に飛び込めるよう、喜右ヱ門は腰を浮かした。
丁度その時に、聞こえるか聞こえないかの、あの声がした。
始まったのかの?
遣戸に伸ばしかけていた手を止めた。
ささやかながらも心騒がせる声調に聞き覚えがあり、親しみたくなくとも耳慣れている。
密儀が始まっていれば、己に用はない。
腰を下ろし、体の緊張を解いた。
事を急いで開けるよりも、光希が出てくるのを後は待てばいいのである。
始まってしまえば、果たすべき用は、光希もない。
これは……。
漏れ続けてくる小さな声を聞くともなしに聞いている内、喜右ヱ門は、はっ、と気付いた。
……光希様……?
二年半もの間、多くの時間と行動を共にした者の声なのだから、聞き間違える筈はない。
何という声を……っ。
いつもの声とは違い、別人のものであるように聞こえた。それ故、始めは光希の声だとは、思わなかった。しかし、何度も耳にした今となっては間違いなかった。
村の群集の中にあっても、山菜を摘みに山に入った時であっても、光希の声は聞き取る事が出来た。通りやすい声と言うのだろう。彼の声には独特の響きがあり、嫌悪を与える事なく、するり、と胸に滑り込み、気持ちが落ち着くといった、不思議な響きがある。
その特有の響きが、漏れ聞こえてくる声には、ある。別人と思われた要因は、声の落ち着きが失われている事にあった。甘さと切迫さとが相合わさったものにすっかり取って代わってしまっている。
どんな乱暴を働かされても、光希の口からこんな声が出てくる事はなかった。
遣戸がぴたりと閉じているので、中で何が起こっているのかは、分からない。
何かを訴えようとするかのように、声だけが徐々に大きくなってゆく。それにつれ、喜右ヱ門の顔だけといわず、耳まで真っ赤になってゆく。耳だけに意識が集中し、心臓が、ドクドク、と強く脈打ち始め、鼓動が太鼓のように鼓膜を打ち始める。
喜右ヱ門は、どうすれば良いのか分らず、片膝を再び立てて中途に体を浮かし、おろおろし始めた。
拝殿の方に顔を向けた。
姥様が縁の上で小さく正座していた。
拝殿と神泊処とを繋ぐ打橋は、喜右ヱ門が外したままである。
つづく
姥様の息子達が新鮮を奉げに上がった時と、同じような音だった。
失敗か?と思い、いつでも中に飛び込めるよう、喜右ヱ門は腰を浮かした。
丁度その時に、聞こえるか聞こえないかの、あの声がした。
始まったのかの?
遣戸に伸ばしかけていた手を止めた。
ささやかながらも心騒がせる声調に聞き覚えがあり、親しみたくなくとも耳慣れている。
密儀が始まっていれば、己に用はない。
腰を下ろし、体の緊張を解いた。
事を急いで開けるよりも、光希が出てくるのを後は待てばいいのである。
始まってしまえば、果たすべき用は、光希もない。
これは……。
漏れ続けてくる小さな声を聞くともなしに聞いている内、喜右ヱ門は、はっ、と気付いた。
……光希様……?
二年半もの間、多くの時間と行動を共にした者の声なのだから、聞き間違える筈はない。
何という声を……っ。
いつもの声とは違い、別人のものであるように聞こえた。それ故、始めは光希の声だとは、思わなかった。しかし、何度も耳にした今となっては間違いなかった。
村の群集の中にあっても、山菜を摘みに山に入った時であっても、光希の声は聞き取る事が出来た。通りやすい声と言うのだろう。彼の声には独特の響きがあり、嫌悪を与える事なく、するり、と胸に滑り込み、気持ちが落ち着くといった、不思議な響きがある。
その特有の響きが、漏れ聞こえてくる声には、ある。別人と思われた要因は、声の落ち着きが失われている事にあった。甘さと切迫さとが相合わさったものにすっかり取って代わってしまっている。
どんな乱暴を働かされても、光希の口からこんな声が出てくる事はなかった。
遣戸がぴたりと閉じているので、中で何が起こっているのかは、分からない。
何かを訴えようとするかのように、声だけが徐々に大きくなってゆく。それにつれ、喜右ヱ門の顔だけといわず、耳まで真っ赤になってゆく。耳だけに意識が集中し、心臓が、ドクドク、と強く脈打ち始め、鼓動が太鼓のように鼓膜を打ち始める。
喜右ヱ門は、どうすれば良いのか分らず、片膝を再び立てて中途に体を浮かし、おろおろし始めた。
拝殿の方に顔を向けた。
姥様が縁の上で小さく正座していた。
拝殿と神泊処とを繋ぐ打橋は、喜右ヱ門が外したままである。
つづく
